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日本を代表する調味料、醤油。そのルーツは、13世紀頃「由良興国寺」の開祖・法燈国師が中国に留学、そこで学んだ径山寺味噌の製法を地元・湯浅に持ち帰ったのがはじまりといわれている。
味噌を造るときに桶の底に溜まる汁が美味しく、料理にも重宝すると村人に広まり本格的に造り始められた“旨み汁”が醤油の原点なのだという。その醤油発祥の地で天保12年より蔵をかまえ、150年以上にわたり醤油を造り続けているのが「角長」であり、5代目当主・加納長兵衛氏だ。 |
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長兵衛氏が「角長」を継いだのは昭和24年、まさに戦後の混乱期だった。最盛期には湯浅に92軒あった醤油蔵は、このときすでに23軒となっていた。良い醤油を仕込みたくても原料の大豆は油を搾りきったあとのカス(脱脂加工大豆)しか回ってこず、小麦はふすまばかりしか手に入らない。さらに大手メーカーは本来の醸造過程を経ない新式醸造という手法や防腐剤などを用いて短期間の大量生産を可能にし安価な醤油を発売したため、長兵衛氏夫婦と番頭の3人しかいない小さな醤油蔵では到底太刀打ちなど不可能と思えた。
苦労の甲斐なく湯浅の同業はみな廃業を余儀なくされてしまい、残るは「角長」のみとなっていた。しかし長兵衛氏はなんとしても湯浅の醤油を残したかった。この地で連綿と続いてきた醤油造りの歴史と先代までが守りつづけてきた「角長」の味を自分が絶やすわけにはいかなかった。「どんなことがあっても、醤油と一緒に生きていこう」。夜中の雨に床から飛び起き蔵に走り、明かりのないなか手探りで蔵に雨漏り用の桶を並べる日を繰り返しながらも、その強固な信念は潰えることがなかった。
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なんとか良い材料を入手し、ある程度納得がいく醤油が出来るようになったのは、昭和30年代も後半だった。少しずつ増えてきた得意先では、長兵衛氏の醤油がすこぶる高い評価を得るようになった。岡山県産の大豆と国産の小麦を使って創業以来使いつづけている吉野杉の大樽で仕込む醤油は、蔵の天井や柱をびっしりと覆う蔵つき酵母により芳ばしく複雑な香りと秀でた旨みを持ち、ほかで真似ることができないふくよかな味わいを含んでいる。その香りの深さを最も身近に感じていた長兵衛氏は新しい試みを始めた。
通常、樽の中で一定期間熟成させたもろみは、圧搾したのちに加熱処理をするのだが、長兵衛氏は圧搾も加熱もせずに、酵母がそのまま生きた醤油を造りたいと思ったのだ。麹が原料を分解してできた汁のみを取り出す、人の手を全く加えていない醤油。その年の一番出来の良い杉樽を選んできめの細かい特注の笊を沈め、笊のなかに染み出る醤油をすくい取るそれは、醤油が生まれたときと同じ“旨みの汁”、まさに醤油の歴史を踏襲したものだった。酵母の影響で通常の醤油に比べ少し濁った色になることから名付けられた「濁り醤」は完成までに約10年を要した長兵衛氏の傑作である。 |
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| 長兵衛氏の息子であり6代目となる誠氏は話す。「親父は醤油の仕込みについて一切、何ひとつ教えてくれなかった。そのくせ私が仕込んだ醤油の出来が悪いとどやされた」。その誠氏が蔵に入って早や25年が経ち、70歳を機に一線を退いた長兵衛氏は現在、蔵からほど近いところに長年苦労を共にした妻の眞佐子さんと住んでいる。そして毎朝、蔵の方から運ばれてくる酵母の香りを聞いている。「あぁ今日の蔵は調子が良さそうだ?とね。その日は気分がいいんです」。そこには湯浅の醤油を守り通し、すべてを乗り越えたいい笑顔があった。 |
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| 創業時より使い続けている吉野杉の大樽。今や修理できる職人はいないという。 |
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