| 東京下町の住宅街の一角にたたずむ小さな作業場。朝早くからポンポンという杵の小気味よい音と、白飯の香りに満ちた湯気をかいくぐりながら、真っ白い作業着姿の職人達が自分の仕事を誠実にこなしていく。20代もいれば60代もいる。互いに前後の作業を気遣いながら、絶妙な連係で米の一粒一粒を香ばしい煎餅に仕上げていく。その輪の中心にいるのが、店の主である佐々木康祐さんだ。 |
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| 佐々木さんは、この地に煎餅屋の2代目として生まれた。幼い頃は、よく両親に家の手伝いをさせられた。学校に行く前には、煎餅の生地を作るために米を蒸かしたり、帰ってきてからは醤油釜の火加減をみていた。昭和20年代、家業を持つ家庭の子供はそれを手伝うのが当たり前の時代。この仕事の大変さを身を持って知った佐々木さんは、自分は絶対に煎餅屋にはなるまいと思っていたという。 しかし、大学を卒業し、一度は都内のあられ屋で仕事を習ううちに家業を継ぐことを決める。「よそで修業して、有難いほどたくさんのことを勉強させてもらった。そして父の背中を思い出したとき、心から父のあとを継いで煎餅屋になりたいと思った」と言う。 |
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| 家業を継いでからは、試行錯誤の連続だった。親の手伝いをしていたときと同じ感触にどうしても行き当たらないのだ。醤油を炊くときの香り、吹きこぼれ方、生地を手にしたときの感覚、煎餅を焼くときにできる気泡を塞ぐために刺す錐の抜け具合。どれもしっくりとこないのだが、原因がわからない。大量生産の波に押されてオートメーションの機械も入れた。するとさらに自分の思いに反する煎餅ができてしまった。いよいよ行き詰まりかけたとき、以前この店で働いていた職人が試作で持ってきた煎餅に驚いた。無農薬の米で作ったものだという。 煎餅は、もち米ではなくうるち米で作る。蒸して練って搗いて成型したものを乾燥させ、それを焼く。しかし規模の大小を問わず、煎餅メーカーの多くは生地までを専門に作る“生地屋”から仕入れたものを焼いている。また、煎餅の生地にするうるち米は古米や破砕米、時にはつなぎ粉が使用されることがある。しかし、昔はそうではなかった。作業場には白米と蒸し器があり臼があった。からんだ糸が解きほぐされたような、原点に立ち返った思いだったと佐々木さんはいう。 |
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| 佐々木さんの作業場では、無農薬の玄米を精米するところから煎餅作りが始まる。入り口には無農薬原料で仕込んだ醤油、種子島の洗双糖などが丁寧に積み上げられてあるが、なかでも国産の胡麻は全流通量の数%にも満たない希少なものである。その胡麻の一粒も潰さないよう、生地で胡麻を包みながら少しずつ石臼で搗きあげていくのが、胡麻だくさんの煎餅だ。生地の仕込みから、2度の乾燥工程を経て焼きあげ、甘めの醤油に浸してさらに乾燥させて完成させる。 煎餅を焼く火床での加減が最も難しい固焼きは、多くても一度に30枚しか焼けない。冬でも35℃、夏場なら50℃近くとなる火床の前で気温、湿度はもちろん、1枚ごとに違う煎餅の生地に触れ、絶えず網の位置を変え、平均約90回ほど上下を回転させて焼き上げる。ちょっとでも気を許すと、一瞬で膨らむ生地に手が追いつかなかったり、焼け過ぎてしまい商品にならない。生地のたった1%の水分の違いを上手に手繰れるようになるには、最低10年は必要だという。玄米から約1週間をかけて出来上がる堅焼き煎餅は、割ると周囲にお米の香りがふわりと立ち昇る。 |
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| 佐々木さんは今、煎餅を作るのと同じくらい職人を育てるのが楽しいという。作業場には20代の青年が3人、数年前からは佐々木さんの長男も自ら望んでこの職に就いた。良いものを作り、人様に喜んでもらう。人一倍手をかける分、得られる喜びも大きい。 「1枚食べただけでは伝わらないかもしれないが、食べているうちに、なんだか温かさを感じる。それこそが職人が作ったものなんだよね」。 精米から始まる、佐々木さんの煎餅作り。心をこめて焼き上げたその味は、確かにほんのりと温かい。 |
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| 生地に胡麻を投入するときは、一粒も潰さぬよう特に気をつかう。 |
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| 火床で火加減を操れるようになるには10年は余にかかる。 |
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| 佐々木さんを慕い、「煎餅を焼くのが楽しい」と語る職人たち。 |
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